思考様式を体得し、対話を徹底することが大事【中野剛志×適菜収×小池淳司〈第5回〉】
神戸大学工学部100周年記念学内シンポジウム鼎談《第5回》【中野剛志×適菜収×小池淳司(神戸大学工学部長)】
■「言葉で語れないもの」を伝えること、学ぶこと
参加者:小池先生の言葉を借りると、Tellしようがないというか、知識がない者に対して我々ができることは、私が考えたことと学生が考えたことを、互いに話すことしかできなくて。それは、まさに知識以外の部分を、教育していると言っていいか、わからないですけど、教えるというか。対話をすることだけであれば、できるのは。そこが、そのための場なのかなと考えています。一方、専門教育に関していうと、機械工学科で数学と流体力学を教えていますが、やはりそれは知識でしかない。私の言葉から、学生は、必ずしも学ぶ必要はないかなと思うんですよね。なので、授業のやり方として、研究室教育で、対話を重視すべきものなのか、どうかということを、ちょっと、ご意見を伺いたいと。
小池:中野さんが先ほど言われた、オンラインと対面の違いみたいなことですね。「やる気スイッチ」を見つけれたら、すごく、上手くいくと思うんですよね。学生の表情を見ながら。『論語』にもそうありますよね。「子曰く、之を知るものは之を好む者に如かず。之を好むものは之を楽しみものに如かず」でしたっけ。対面での専門科目の授業でも、先生が、見ながら、そこをやれると、上手くいくんじゃないかと、僕は思うんですけど。中野さん、どうですかね。
中野:対話こそが大事だと思います。教育は古今東西、東でいえば孔子とその弟子たち。西で言えば、ソクラテスとプラトン。要するに、古来から学問は対話です。特に、プラトンが書いたものなんか、対話ばっかりですよね。ソクラテスがこう言って、こうやって混ぜっ返したら、こう答えたとか。『論語』もそうなんですね、「子曰く」ってあるように。「やる気スイッチ」も対話を通じて見つける。対話すれば、どんな子かもだんだん、わかってくる。それで、先生が「これは僕の専門じゃないけれど、この論文を読んでみたら?」などと言って、それが刺激になって、学生の成長につながるということはあるし、私も学生の頃そうやって刺激を受けた経験があります。
教育なんかやっていると、研究の時間がなくなるからイヤだという大学の先生もおられるかもしれません。しかし、学部生を教えている最中に、自分の研究についてハッと気づくこともあるのではないでしょうか。だから、先生も対話により教育されているのです。私も留学していたとき、そういうことを言う先生がいた。学部生を教えることにより、いろいろ思いつくのだそうです。そういう世界はいいですね。先生のほうも、自分で何か思いつくような対話をしてるんだから、学生からすれば、楽しくて仕方がないはずです。そんなもの、放っといたって育ちますよ。
もちろん、最初の段階ほど、基本的なことを叩き込むのは必要で、まず、基本的な法則とか、実験のやり方とか、基本的な、学問体系をマスターしてもらわないと、話にならない。基本的な理論をマスターしてないと、その理論を超えるようなものが何かもわからないんだから、イノベーションなんか起きようがない。トマス・クーンのパラダイム理論もそうですね。ニュートンの理論体系が成熟し、煮詰まってきて、ニュートンの理論体系では説明できないものが出てきたので、次の理論が出る。最初から「自由な発想」でなんてやってたら、進歩がなくて、いったんは既存の理論体系をマスターする。そういった意味では、専門教育を、みっちり、叩き込むというのは確かに必要です。
他方で、神戸大学の工学部が研究室教育を重視しているというのも、大変、魅力的です。学生のほうも、先生とコミュニケーション取るのが面倒くさいという子もいれば、専門教育が退屈だって子もいる。でも、神戸大学の工学部の歴史で、教養教育と専門教育と研究室教育をバランスを取ってやるのがいちばんいいとわかってきたから、やっているということではないでしょうか。私が言うのもおこがましいですが、ぜひ、その伝統を守っていただければと思います。
菊池:教養というと、たいてい、1年生、2年生で勉強する哲学や倫理学のことだと思います。数学や物理学などの専門教育は、どうしても、知識を伝えることに特化しがちである。その専門教育をどう考えたらよいのか、研究室教育での対話を重視すべきなのかというご質問だったと思います。今、中野先生がおっしゃっていた通り、対話こそが大事なのだと思います。対話を徹底する、そのことに尽きると思います。ただし、専門教育の中にこそ、教養がある。適菜先生がおっしゃってたように「言葉で語れないもの」を伝えること、学ぶことが大切で、その「言葉で語れないもの」が教養なのだと思います。そして、その教養は専門教育の中にある。
確かに、数学を教えていると、「数学なんてテキストの中に全部書いてある、なんで授業をしなければならないんだ」という気分になるときがある。だけど、「テキストを読む」というのは、そんなに簡単なことではない。テキストは舞台の脚本みたいなもので、舞台そのものではない。講義が舞台なのでしょう。先生が黒板で誰かの定理を証明するときには、ただテキストを読み上げているのではなく、この定理をどのように理解しているのかを、身振り手振りで演じている。すると学生は、それを見ながら、その定理をどのように理解すべきなのかを学ぶ。
我々は講義で、本に書かれてる内容よりも、むしろ、その本の読み方を伝えているのだと思います。その本の読み方や舞台の演じ方が、「言葉で語れないもの」に他ならない。書けることはすべて脚本に書いてある。しかし、それだけでは舞台にならない。書けないことがある。その書けないことこそが、まさに教養なのだろうと思います。
適菜:本当にそのとおりだと思います。同じ台本でも、演じ方は役者によって違う。その演じ方、表層的な知識ではなく、思考回路の部分を学生は感知できればいいのだと思います。
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